WE HAVE ALL THE TIME IN THE WORLD
 

「知盛、入るよー」
 礼儀として声をかけつつ、きっとまた鍵はかけてないだろうと思いながら遠慮なくマンションのドアを開ける。予想通り、難なくドアは開いた。
 だが、一歩踏み入れた望美の鼻をくすぐった甘く香ばしいコーヒーの香り。奥から聞こえてきた、部屋の主の低い声。
「よう……」
「あれ、いたんだ」
「神子殿は、俺が自分の部屋にいるのにご不満でも……?」
 ベッドからむくりと身を起こしながら知盛が言う。
「違うよ。まだ帰ってないと思ってたから。……いい匂いだね」
 香りの元はキッチンに置かれたコーヒーメーカーだった。先おととい一緒にショッピングセンターに行った際に購入したものだ。部屋に戻って望美が使い方を説明して、実際にコーヒーを淹れて飲んだが、そのあとも知盛はちゃんと使いこなしていると見える。
「飲みたければ、好きにどうぞ……」
 知盛も自分でコーヒーを淹れるところまで来たんだなあと感動に近いものを覚えながら、望美は食器棚からカップを取り出した。棚はほとんど空いていて、食器も最低限のものしか置いていない。この調子だと冷蔵庫の中もいつもと同じ、ほぼ空だろう。望美が来て何か作らない限りは、知盛はほとんど酒とつまみ程度か買い食いで済ます。あまり推奨できない食生活だ。
 だが一方、コーヒーメーカーに限らず、知盛はずいぶんと現代の生活に慣れてきたようだ。携帯電話は望美との連絡に必須だし、この間買ったパソコンは、翌日望美が学校帰りに寄ったら、すでにインターネットに接続して何やらいろいろと調べているところだった。手馴れた感じの知盛に望美もびっくりした覚えがある。
 知盛はものぐさなわりに、その気になれば覚えは早いのだ。もっともその気にさせるのがすごく大変なのだが。
「知盛は飲む?」
「……ああ」
 もうひとつカップを用意して望美はコーヒーを注いだ。知盛はブラック。だからここにはミルクや砂糖といった気の利いたものは、当然ながらない。今度お砂糖とミルクを買ってくること、と頭の隅にメモしながら、望美はベッド脇のテーブルまでコーヒーを持っていった。ベッドから降りた知盛も、望美と差し向かいの椅子に腰を下ろす。
 白いシャツにダークカラーのパンツという姿からすると、知盛は朝から今までずっと寝ていたわけではなくて、外から戻ってごろごろしていたもののようだ。外出の理由に察しのついている望美は、きちんと用事は済ませられたかなと思いながらコーヒーを口にした。ぱっと目を見開く。
「おいしい……」
 お世辞ではなく、本当においしい。深みと甘みのある香り。苦みと酸味は控えめ、軽やかなのにコクのある味。
「知盛、淹れるのうまいね……」
「別に俺の腕じゃない。水と粉をそろえれば、あとは機械がやってくれる。便利なものだ」
 そういうものかと思いつつ、でも自分が淹れた時よりやっぱりおいしい気がする。知盛が淹れてくれたから? 望美はしばらく味わうようにコーヒーを飲んでいたが、黙ったままの知盛にがまんできず尋ねた。
「で? どうしたの? ちゃんと渡せた?」
「ああ。思いのほか早く済んだ」
 望美の質問を予期していたように短く答え、知盛はまたカップを口に運んだ。自分から細かく話すつもりはないようだが、望美としては最低限確認しておきたいところである。
 知盛がホワイトデーのお返しをちゃんと渡せたか。そして……万が一にも相手に心を動かされたりはしなかったのかを。
 知盛が女性たちからチョコレートを複数もらってきて、望美が心穏やかならぬ思いをしたのは、ちょうどひと月まえのバレンタインデーのことだ。名前も知らない相手から押し付けられるように渡されたのもあったらしい。ホワイトデーの習慣を面倒くさがる知盛に、義理はきちんと果たすよう、望美は諄々と説得したものである。ただその後は、しつこい女と思われるのもいやだったので、わざとホワイトデーの件は触れないようにしてきたのだが。
 もっとも知盛が食べたのは望美お手製のトリュフだけ。あとの高級チョコレートは、それらを知盛に渡した女性たちに心の中でゴメンとあやまりつつ、望美がおいしく食べてしまった。知盛は甘いものは好きではない。食べないまま放りっぱなしにしておくのは目に見えていたし、加えて言うなら望美自身もおいしくいただかれてしまったのだが……。その時の記憶はとりあえず振り払って望美は尋ねた。
「お返しには何をあげたの?」
「くっきー、という名の菓子だ。今日専用の商品を駅のそばの店で買った。その店のは、うまいらしいな」
 知盛が口にしたのは、ここからそう遠くない場所に建つ洋菓子店の名前だ。敷居の高くない地元のお店であるが、ひとつひとつていねいに作られたトリュフやクッキーは逸品として遠方にも知られている名店だ。
 なかなかよい選択ではないだろうか。特別なこだわりを持った贈り物ではない、けれど間違いなくおいしいとわかっているものを贈るというのは。
 だが、知盛がお菓子を買っている姿というのはなかなかイメージしにくい。どんな顔で買っていたのだろう。どうせ楽しくもなさそうな顔をしていたのだろうけど。
 でも口さえ開かなければ、少々剣呑な雰囲気はあるものの、まず見栄えのいい部類に入る知盛である。お店の人も、彼がお返しギフトをいくつも買うのを不思議には思わなかったことだろう。
 ……むっすりした顔で、ショーケース前であれこれ選んでいる彼。具体的に想像すると何だか笑ってしまいそう。けれどそんなことを口にすると知盛が眉を寄せるのがわかっているので、胸の中にしまっておくことにする。
「そういえば見たこともない女性にチョコ押し付けられたって言ってたじゃない。その人、見つけられた?」
「渡されたあたりを歩いてたら、向こうからやって来た」
 知盛によると、彼女は近所の高級ブティックに勤める女性らしい。知盛はその前の通りを時たま通っている。ガラス張りの店の壁を通して、道を行く知盛にどうも一目ぼれしたようだ。今日も知盛が外を歩いて行くのを見つけて、向こうから出てきたという。ホワイトデーがやはり気になっていたのかもしれない。
「今日初めてよく見たが、なかなか見目のいい女だったぞ。目が大きくて、腰が細くてな」
「ふーん、そう……」
 無関心を装う望美に知盛は言った。
「俺に想いを寄せる女、しかも美しい。以前なら、声をかけられれば菓子を贈るなどという迂遠なことはせずに、すぐに褥に連れ込んでいたがな……」
「ええっ」
 突然の放言に望美は驚く。知盛の暮らしていたあの時代、恋愛には何かと制限もあっただろう、それでも男性側はかなり自由だったようだ。その中でも特に奔放さを発揮していたに違いない男はぬけぬけと続ける。
「女の方からわざわざ想いを告げてくれたんだ、それに応えるには抱いてやるのが一番だろう?」
「だめ!」
 思わず非難するような声を出してしまい、しまったと思ったがもう遅い。案の定知盛はにやりと笑った。 
「悋気か? 案じるな、おまえがいるのに他の女に向ける時間などないさ……。俺はおまえひとりで手一杯だ。なあ、神子殿?」
 思わせぶりな言い方に頬が熱くなるのを抑えられない。望美は必死に弁明した。
「だめって、あの、それはね、私がどうこうってことじゃなくて、一般的に、好きって言われたら、それだけですぐ……褥……なんて、ちょっと問題ありでしょ?」
 あわてた様子を隠すように、ふたたびカップに口をつける。
「ではおまえと俺の場合はどうだった? 思い出してみろ」
 望美はコーヒーを噴き出しそうになった。源氏と平氏の和議の前夜。振り返るだけで顔がほてりそうな知盛との……。だが知盛は平然と言う。
「あの時、俺がほしいと訴えてくる美しく激しい女に、最高の方法で俺は応えたつもりだが……?」
 記憶を呼び覚まされて、望美はさらに赤くなった。あの時の自分は、絶対にいつもと違っていた。命ぎりぎりの壮絶な戦いの興奮の余韻と、長い道のりの果てにようやく彼を手に入れた歓喜、もう決して離れたくないという強い強い思いが重なって、今となってはあれはもう、何がどうしてああなってしまったのかよくわからないが、とにかくそういうことになってしまったのだ。
 愛してると口にしたわけではないけれど、知盛がほしいと何度も言った。それは決してそういう関係になりたいという意味をこめたのではなく、いや、知盛は当然その意味を含めて受け取ったのだ。
「俺はよく覚えてるぜ。俺を見上げるおまえの熱っぽい目……首筋を吸うとふるえて俺にぎゅっとしがみついてきてな……衣を取り去る時に恥らう様にも、たいそうそそら」
「うわああ、ストップ、ストーップ!」
 大きく手を振り、恥ずかしい文言の羅列を止めさせる。まったくこの男は! 
 これ以上続けるなら一発お見舞いしてやるとばかりの望美に、知盛はとりあえず発言を控えたものの、笑いをこらえきれない様子だ。
「おまえといると本当に退屈しないな……」
 くくっと笑いをこぼす知盛にからかわれたのだと知る。しかし望美が新たな怒りを爆発させる前に、知盛はすかさず続けた。
「安心しろ。あの女に菓子を渡す時に、俺には決まった女がいるからこれ以上の気遣いは無用だと言っておいた。いっとき悲しむかもしれんが、かなわぬ望みを持たせる方が酷だ」
 深みのある紫の瞳をかすかに細め、望美を見つめる。
「これほどまで俺を退屈させない女がここにいるのに、他の女など必要ない……そうだろう?」
「も、もう、何言ってるの」
 突然跳ね上がる鼓動をもてあましながら目をそらす。相手の女性に申し訳ない気持ちになるのと同時に、知盛にそう告げられてうれしくてたまらない自分がいる。「退屈させない女」とは、ほめているのかおもしろがっているのか内容が少々微妙だが、それでも彼の言葉ひとつで先ほどまでの怒りもすっかりエネルギーを失ってしまうのだから、始末が悪い。
 それに知盛もそんな望美の反応をよく心得ているらしいのが、また釈然としないところだ。こちらがいつも一方的に翻弄されている気がして……それが年齢の差、経験の差というならば、永遠に差は埋まらない。よけいにくやしい……。
「それより! 私のは?」
「おまえの?」
「そう。私のためのホワイトデーのプレゼント! 私も知盛にチョコあげたでしょ?」
「ああ。無論ある」
 強い調子で聞きただしておきながらも望美はほっとした。もしかしたら、知盛は肝心の自分のことは忘れているか、まったく気にしていないか……とさえ思っていたのだ。さすがにその点は望美の心配しすぎだったようだ。
 知盛はキッチンから大きな紙袋を取ってくると、中から箱を取り出した。例の店の美しい包装紙、高級そうなリボンと小さな花飾りで綺麗に整えられたプレゼント。だが望美は目を丸くした。
「……ずいぶん大きいね」 
 正直な感想をもらす。大家族へのおつかいものか、クラブへの差し入れにでも使えそうな大きさだ。
「店で一番大きいものを買ってきた。おまえは甘いものが好きだろう? たくさんある分にはかまわないと思ってな。こちらの世界の菓子の味はよく知らないが、これだけ入っていれば好みに合うものもあるだろう。好きなだけ食え」
「えーと……」
 望美はしばし絶句した。大は小を兼ねるということだろうか。知盛がどんなものを選ぶのか予想できなかったけれど、これは想像の外だった。一番可能性が高いと思っていたのは、知盛がホワイトデーなんて忘れているということだったから、よけい。でも箱を手にした知盛はしごく真面目な顔である。……何だか、かわいい。 
 このホワイトデーのプレゼント、ほかの人たちにあげたものとは絶対に違う。こんなに大きいのはきっと私のだけ、特別だ。私の好みとかも一応は考えてくれたみたいだし。望美は無性にうれしくなった。
 あのお店のこんな大きいギフトボックスなんて、望美のお小遣いではとても手が出ない。あそこのお菓子は中身も外見も洒落ていて、クッキーの包装ひとつにしても垢抜けているのを望美は知っている。すてきにおいしいお菓子がこんなにいっぱいと思うと、つい笑みが浮かんでしまう。いっぺんに食べたら太っちゃうから、それだけは注意しなきゃ。
「ありがとう……!」
 大きな箱が知盛の気持ちの大きさなのだと勝手に解釈することにして、受け取ろうと望美は立ち上がり、すなおに手を伸ばした。
 だが知盛は大切なプレゼントをテーブルに放ると、差し出された望美の腕をつかんで自分の方に引き寄せた。望美は驚いて声を上げる。
「ちょっ……!」
「女は物を贈ると喜ぶものだが……おまえもやっばり女だな。だが本当におまえが望んでいるのは、こんな菓子などではないだろう?」
「知盛!」
「おまえが本当にほしいのは、『俺』じゃないのか?」
 耳朶をかすめるコーヒーの香りの吐息。
「離してよ」
 腕をつっぱり、知盛の体との間に隙間を作ろうとする。しかし彼女を抱く手はがっちりとして、離すどころか望美の抵抗を軽く楽しんでいるふうですらある。
「おまえにもらったチョコレートはうまかった……。それにおまえ自身もな」
 バレンタインデーの時のことを思い出して、望美はまた赤面する。チョコレートよりも甘く溶ける時間をすごしたことも。
「今日は俺がおまえに応える日なのだろう? ならば……」
 もともとふたつ目まで外れていたシャツのボタンをさらにひとつ外し、望美の片方の手首をつかまえてシャツの中へと導く。
 望美は息を呑んだ。もちろん知盛の肌の感触はよく知っている。でも明るい中で、こんな風に導かれるのはひどく……気恥ずかしい。けれどこの、いつでもどこでも隙あらば望美に手を出したがる男が、ホワイトデーにお菓子だけ渡すと思うのがそもそも甘かったのかもしれない。
 だが望美も知盛の行動パターンを学習しつつあるのだ。こういう展開になるのは予想できなかったわけじゃないと、不承不承ながら彼女は認めた。それでも……拒否しようという気は起きない。それどころか甘い期待に体の奥がすでに熱を持ち始めている……。
「コーヒー、冷めちゃうよ?」
 知盛の堅い胸から喉元へと、いざなわれるまま従順に手を動かしつつも、意地っ張りな口だけはまだ反抗をやめない。
「なに、そんなもの何度でも淹れてやるさ……」
 やめるつもりなど露ほども感じられない男の口調に、望美はあきらめたように小さくため息をついた。
「知盛って、ほんと好き勝手ばっかり……」
「そんな俺が気に入って、この世界に連れてきたんだろう? 」
 知盛のこぼした低い笑いはまるで、細い指先に肌を撫でられる快感に喉を鳴らしたようだった。軽く押さえていた望美の手首を離し、長い髪を持ち上げると現れた白いうなじに唇を這わせる。望美が声をもらし、ひくりと肩を揺らした。
「……だが本当に振り回しているのは、いったいどちらなのだろうな?」
 押し当てられた唇の熱さに気を取られていた望美には、くぐもったつぶやきはよく聞き取れなかった。
「え?」
「……いや」
 ひとしきり食むように首筋を唇で愛撫すると、知盛は顔を起こした。視線を合わせた男の顔に浮かぶ艶めいた笑みに、望美は一瞬くらりときた。思いのままにふるまえば、それに見合うだけのものはくれてやると、酔うほどの悦楽を約束する微笑……。息が知らず浅くなる。
 知盛は望美のうっすらと染まった頬、濡れた瞳、招くように半ば開かれた紅い唇を満足気に眺めた。いつもは反発ばかりしてくる彼女のそんな姿がどれほど彼をそそるものか、本人はまったく気づいていないのだろう。彼が掻きたてた昂ぶり。知盛を常に刺激せずにはおかない、少女の中にひそむ激しく甘い熱……。
「おまえになら、骨まで食われても惜しくはないさ……」
 知盛にしては上等の部類に入る愛の言葉に、望美はかすれた声で答えた。
「……じゃあ、本当に食べちゃおうかな」
「お好きなように、神子殿……」 
 吐息だけで笑うと、銀色の髪に差し入れられた望美の手に引き寄せられるまま顔を近づける。唇が重なる寸前、誘うようなささやきが望美の全身をふるわせた。
「たっぷりと味わえよ。 『俺』を、な……?」



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